コラム・大阪地域自慢

大阪の北から南へ、西から東へ、ぶらりと旅をすれば必ずやその地の自慢があります。大阪に長年住んでいながら知らなかったことや、知っていたことも更に詳しく、各支部からご紹介していただき、大阪の通になりましょう。きっとその土地へ行ってみたくなるはずです。

vol.40 八尾の農産物を使った「ご当地グルメ」が誕生
      〜産学官あげての八尾バルにいらっしゃい〜

vol.40
中河内ブロック
八尾支部 おふぃす・ともとも 
高野 明美 (八尾バル実行委員長)

「八尾を盛り上げたい!」という思いを持った八尾市民たちが、7年前に立ち上げた飲み歩き食べ歩きイベント「八尾バル」。2018年7月14日(土)、15回目が開催されます。バルは、飲食店をはしごするように飲み歩き食べ歩きするイベントで、他地域でも開かれています。しかし、八尾バルには他のバルにない2つの特徴があります。一つは「八尾えだまめ」「八尾若ゴボウ」を使ったご当地メニューが出てくるところ。
もう一つは、八尾在住の社会人や学生が、完全ボランティアで運営しているところです。八尾市外の皆さんは、八尾が近畿最大のえだまめ生産地であることや、葉っぱから根っこまで食べられる若ゴボウの存在を知りません。これをバルメニューを通じて知ってもらい、八尾の飲食店に足を運んでもらうことで街を活性化したい、という思いがあります。開催するたびにお客様が増え、いまでは40店舗が参加し、1日3,000食近くが出るイベントにまで成長しました。
八尾の企業も八尾バルに協賛してくださるなど、産業、商店、市民、学生がコラボで盛り上げるイベントとなっています。さて、今回はどんなご当地メニューが誕生するのか。おいしい八尾を味わいに、ぜひいらしてください。

八尾の地域自慢に、まだ若い緑の大豆 を使って醸造したえだまめビールもご紹 介しましたね。八尾の若ゴボウも有名だ そうです。雄大な河内平野に育つご当地 野菜を使ったメニューでおもてなし、素 晴らしいイベントが開催されるとか。夏 場になると河内音頭の太鼓の響きが聞こ えてきそうです。(編集 西岡)



vol.39 大阪第二の集客駅 阿倍野界隈
      〜近代的なおもむきの中に由緒正しき名前が残る街〜

vol.39
大阪南東ブロック 阿倍野・住吉支部
(有)エー・エム・アイ 栩野 正喜

わが阿倍野区は南北に長い地域で、北はハルカスやキューズモールなどがあり、鉄道のターミナル駅(JR・近鉄)で奈良や和歌山方面からの人たち、さらにはインバウンドの方たちで賑わっております。南の方へは阪堺線、地下鉄御堂筋線などの鉄道や、あべの筋(府道30号)やあびこ筋(府道28号)などの道路もあり、交通の便のよい所です。区名の由来は歴史で有名な陰陽師安倍晴明の名を思い出しますが、古代、豪族の安倍氏が支配しており、そこから来たといわれています。

今でも晴明通りや安倍晴明神社があります。また、播磨町も南北朝時代に楠木正行に敗れた播磨の赤松氏側の遺骨を集めて播磨塚として冥福を祈ったことに由来しており、他にも北畠顕家を祀る阿倍野神社や、北畠公園などの歴史的な場所が多いです。地域の特長として帝塚山・北畠が高級住宅地として有名なように、産業よりも住宅地域という所ですが、産業も盛んで大手企業の本社が数多くおかれています。住民としての地域自慢は、公立では天王寺高校、阿倍野高校、住吉高校、私学では桃山学院高校があり、進学校が多い文教的な地域で他地域から転入して来る方が多い所であります。

2014年3月、あべのハルカスの開業から阿倍野界隈のイメージが変わった気がします。それまでは動物園、新世界、通天閣の印象でした。高さ300メートル、日本で最も高いビル。空間を風が通り抜ける容姿は2017年グッドデザイン賞に選ばれたとか。天空へそびえる青いランドマークを遠くにいても探してしまいます。(編集 西岡)



vol.38 高槻城主 高山右近の軌跡 〜福祉国家の礎となる〜

vol.38
大阪北ブロック 三島支部
並川洋子税理士事務所 鹽井 雅也

阪急高槻市駅から南に5分ほど歩くとカトリック高槻教会があります。ここに1573年21歳で高槻城主となった高山右近の像があります。
12歳の時に父の影響で洗礼を受けた右近は、21歳で高槻城主となり、五畿内で最大の収容力を持つ教会を建てるなど盛況を呈し、1577年には高槻の領民25,000人うち18,000人(72%)の信者がいたと言われています。

しかし、1587年秀吉が突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫りますが、右近はそれに応じなかったため、城から追放され流浪の身となります。1612年徳川幕府はキリシタン禁教令を発布、右近に国外追放令が出されます。
右近一家は2月雪の中を京都に向かい、坂本から船で長崎へ向き、長崎から小さな船でマニラに向かいます。マニラに到着し現地ルソン総督らに大歓迎されるも、慣れない南国の風土に体を病み、到着後40日1615年2月63歳の生涯を異国で終えました。
右近がこの高槻の地でこれほどまでに盛況を呈したのは、彼が非常に活発で知性に優れていただけでなく、今でいう「福祉国家」をこの地で形成し、戦いで傷ついた民たちを自ら休むことなく献身的に世話するほか、このような貧しい者たちの世話をする役職を毎年任命して仕事に当たらせていたことにあります。
右近は、郷土の誇りとして、市民の心を癒し、希望をもって立ち上がる象徴として、今も高槻市民に語り継がれています。

日本におけるキリスト教迫害の歴史はその後残虐に続き、多くの悲話が各地に残ります。明治維新、鎖国が解かれてキリスト教も1873年ようやく解禁となります。西洋の文化の移入や教育と福祉事業に力を注がれました。2つの大戦を経て、今では思想、宗教、言論の自由を勝ち取った世の中となり、誰しも生きられる権利を持ったことを大事にしたいです(編集 西岡)


vol.37 今も残る花街の文化 〜十日戎は宝恵駕行列にてお参り〜

vol.37
大阪中央ブロック 中央南支部
たに川 谷川 恵

 芸妓さんがいて、お茶屋のある地域を花街といいます。関西ですと京都の祇園や先斗町が有名ですけれど、大阪も歴史のある大きな街ですので、以前は市内各地に花街が賑わい栄えておりました。
 それが時勢とともに衰退して、現在は北新地と南地(ミナミ)にかろうじて残っております。皆さまにおなじみの歓楽街、キタ・ミナミも以前は花街で、その呼称は経済の中心である船場からの位置関係に由来します。わが街、南地は道頓堀の芝居小屋を取り囲むように発展。
陽気で華やかな気風で知られ、昭和の初めには2,000人の芸妓を擁し、500軒を越えるお茶屋が軒を並べました。そこへ日毎夜毎、人が集い遊ぶ中からさまざまな文化が育まれておりました。現在も続く行事に、正月の十日戎の宝恵駕行列があります。南地の芸妓が駕籠に乗って今宮戎を参詣、いただいた福を配って回ります。そうした文化を色濃く残す花街のお座敷は、日本の文化を総合的に体験できる場でもあります。外国人観光客が溢れるミナミの街の一角に、そうした伝統がいまだ息づいているなんて、素敵なことではありませんか。

十日戎の笹飾りに宝恵篭というのがありまして、よく福娘さんに付けてもらいますが、今も芸妓さんの宝恵駕行列が続いているとは露ほども知りませんでした。お参りは毎年行っていますが雰囲気のある夜参りが好きで、なかなか昼には行けません。今度は時間と道筋を調べてぜひ見に行ってみたいものです。(編集 西岡)


vol.36 日本一の毛布の町、泉大津 〜産地ブランド「OZU」や羊キャラ誕生〜 

vol.36
大阪南ブロック かんくう支部
(株)リノ 新家 徳子

 17世紀ごろから庶民の衣料として取り入れてきた綿織物。なかでも泉州地域は有数の綿作地でした。この綿織物の技術と後藤又兵衛が当地に伝えたといわれる真田紐の技術がドッキングしたことで織物技術が向上、毛布のまち発展への礎になったようです。
 泉大津で毛布が誕生したのは明治20年ごろ。その時の素材はなんと牛毛。最初は服地を作りましたが硬さとにおいのために売れず、寝具に転換。やわらかな肌触りを求め悪戦苦闘し、起毛方法の開発、素材を綿にかえるなどの試行錯誤の結果、世界に誇る毛布産地を築いてきました。
 しかし、現在毛布は耐久消費材としていきわたり、消費需要は飽和状態で、生産量の伸びは期待できません。
 泉大津が毛布の町であることすら、地元住民にも知られなくなってきていました。そこで、地元企業が産地ブランド「OZU」を立ち上げたり、泉大津市がマスコットキャラクターや4人組羊バンドを誕生させたりしながら、泉大津のPR活動を精力的に行っています。
もう一つの主翼、ニット産業とともに、泉大津ブランドは進化しつづけます。

ウール、カシミヤ、シルク、綿、アクリル素材も加えて毛布の種類は多種多様。ネットで調べると、泉大津は日本で生産される毛布の90%のシェアを持つそうです。最近の家はエアコンで家中冷やす、暖めるといった文化生活になり、寒くて布団から出られないことが少なくなったかも。毛布の温みが郷愁を誘います。(編集西岡)

vol.35 大坂冬の陣、今福・鴫野の戦い 〜大坂の陣に関わった史跡を巡る〜

vol.35
大阪東ブロック しろきた支部
(株)はりよし 吉永 律

 一昨年は真田丸のお陰?で大阪の街は賑わったことでしょう。真田信繁(幸村)の終焉には大坂の陣があります。歴史にifはありませんが「もし徳川家康の首さえ取れていれば」天下はどうなっていたでしょうか?城東区にはその大坂の陣での戦いの史跡があり、今回はそれを紹介したいと思います。大坂冬の陣で豊臣軍vs徳川軍が戦った今福・鴫野の戦いです。当時の今福と鴫野はそれぞれ大坂城の北東にある水田地帯で、堤以外は人馬が行動しづらいという地形だったそうです。
 豊臣軍は東や京街道方面からの攻撃に備えて、その堤に四重の柵を設けて陣を敷き、現在の寝屋川(当時は大和川)の北岸と南岸で豊臣軍(後藤基次・木村重成、他)と徳川軍(佐竹義宣軍+上杉景勝、他)が戦いました。大阪環状線が南北に走っていますが、平野川の西側を猫間川という大坂城の外堀の役目を果たす川が玉造南の真田山付近まで流れていたそうです。戦国時代ごろ、鴫野は滋野(諸説有り:ヨシがたくさん植わっていた)とか志宜荘(志宜野)という荘園名で呼ばれていたそうです。今回は城東区内を中心に書かせてもらいましたが、大阪市内にも大坂の陣に関わった史跡が結構ありますので、皆様も巡られて歴史を感じてみてはいかがでしょうか?


日本史の中で、現在において最も身近に語られるのは戦国時代に繰り広げられた数々の天下取りの戦です。織田から、豊臣、徳川と戦いにより勢力が移っていく様や、その戦略については現在ビジネスの考え方にも例えられます。ほんの少しの入れ違いで天下、情勢は変わっていたかも……ですね。(編集西岡)

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